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海原氏のシアワセ

 昔。日記(=ブログ)にその日の出来事を羅列したら昔のことは思い出せるよね、という話をしたら、むしろその時考えていたことを書いた方が良いといわれました。出来事は思い出せるけど、考え方や思いなどはその時の自分しかわからないから、とのこと。

 というわけで以下余談。このごろ何と無しに考える事柄を点描的に。



 表題の海原氏というのは漫画「おいしんぼ」の登場人物、海原雄山のこと。彼は料理の造詣が深く、おいしんぼの主人公と年がら年中料理対決を行っています。彼が作るのは「至高のメニュー」。いわば料理の総決算。これ以上の料理は無いだろうというような料理、を作っています。ちなみに「美食倶楽部」という団体を主宰もしています。

 漫画の内容はさておき、彼は美食家。ちょっとでもまずいものがあると激怒します。なんだこの魚は!という感じ。

 しかし、そんな海原雄山は幸せなのか、という疑問を口にしていた友達がいました。誰かは忘れてしまいました。

 彼曰く。海原雄山は美味しい「味を知っている」からきちんとした味で無いもの、もしくは料理としてきちんとしていないものを「まずい」としてしまう。たとえ一般人が「こりゃあうまい、美味しい」と言うような料理でも、作り方や下ごしらえがよくないと駄目料理、と烙印を押してしまう。簡単に言うと、昆布と鰹節からとったダシは良い、だしの素はアミノ酸など余計なものが入っているので駄目。他の人なら「美味しい」という幸せを得ているのに、知識や経験があるせいでその幸せを感じることができないのである。もちろん料理自体のレベルという観点からみれば、海原雄山が評価する料理の方が上級なことは確かである。上級だからより幸せなのか?どうなんだろう。

 とりあえず海原雄山は置いておきます。

 先日司馬遼太郎の本で老子の「小国寡民」という思想が書いてありました。以下hatenaからの抜粋。

国は小さく住民は少ない(としよう)。軍隊に要する道具はあったとしても使わせないようにし、人民に命をだいじにさせ、遠くへ移住することがないようにさせるならば、船や車はあったところで、それに乗るまでもなく、甲や武器があったところで、それらを並べて見せる機会もない。もう一度、人びとが結んだ縄を(契約に)用いる(太古の)世と(同じく)し、かれらの(まずい)食物をうまいと思わせ、(そまつな)衣服を心地よく感じさせ、(せまい)すまいにおちつかせ、(素朴な)習慣(の生活)を楽しくすごすようにさせる。(そうなれば)隣の国はすぐ見えるところにあって、鶏や犬の鳴く声が聞こえるほどであっても、人民は老いて死ぬまで、(他国の人と)たがいに行き来することもないであろう。(以上hatena.ne.jpの記事より抜粋。)

 最後の文章があるので統治に関係する箇所かと思いますが、注目したのは「かれらの(まずい)食物をうまいと思わせ、」から始まるくだり。民がある物事についてよりよい形を知らず、自分の生活が充足していれば、幸せにすごすことができる、という意味だと考えます。

 でもって現代を振り返ると。モノはあふれ、インターネットの普及によって莫大な情報が寸時に手に入り、世界最高の音楽はいつでも聞くことができ、東京大阪間は超特急、誰かと連絡を撮ろうと思ったら電話orメールが地球の反対側まで届きます。そんな世界。もちろんそのことを否定するわけではありません。発展による果実は享受していますからね。

 しかし。それでどれだけ幸せになったかというと。

 幸せの形を考えたときによく思い浮かぶのは黒澤明監督の映画「雨上がる」(名前は間違っているかも)。主人公の冴えない武士が雨上がりを待つ同宿の人々に、その晩のお酒をおごるというシーンがあります。そんでもって小汚い宿の中で見ず知らず同士の宴が始まります。手拍子を打ち、素人三味線がひかれ、酔った人々が踊りだす。映画なので作り物ではありますが、その光景の楽しそうなこと楽しそうなこと。今は絶対こんなことは無いでしょうねえ。

 僕らの不幸せは「知ってしまった」ことかもしれません。雨で川が増水してわたれないなら橋を架けてしまえばいい。キレイな歌声を聴きたければCD屋に行けばいい。アメリカの友人に連絡を取りたければメールでもすればいい。明日阿蘇山の写真を撮りたければカメラを買って、飛行機に乗ればいい。隣人が迷惑ならば警察に訴えればいい。

 まあ便利は便利なのですが軽い感じがします。

 弟がNHKの明治の初期を扱ったドラマ「坂の上の雲」という番組をみて、出演者の感情の発露がオーバーすぎてちょっといただけない、ということを言っていました。その番組をみましたが、確かにオーバーかなと感じる部分もありました。2年ぶりにあった男2人が抱き合ってぐるぐる回りながらはしゃぐ、というシーンなど。

 しかし。現代ではいつでも連絡は取れるし、会いたいと思えばお金はかかりますが飛行機に乗れば数時間。明治初期といえば長距離移動は船と汽車で数日はざら。連絡を取ろうと思ったら数日かかって届く手紙。そんな状況を考えたら2年ぶりに無事再会すれば喜びもひとしおなのかとも思い、このシーンの納得もいくところです。でも演出家の意図や価値観もあるわけで。うーん、結論の出ない論でした。失礼。

 またもや歴史モノの話になりますが、「泣く」シーンが多く出てきます。師匠に恩を受けた弟子がありがたくて泣く、愚弄された主人の状況を聞かされて家臣が泣く、夫が不機嫌な原因が自分にあると誤解して妻が泣く。これも元ネタが本だけに、物語である可能性はありますが、この時代は感情の発露が今よりも隆起があったということは確かなようです。さて、自分がいつ泣いたか、と考えるといつだったかしら・・・。

 あっ。播磨のレースの後か。懐かしい。

 それにしても忘れるぐらい泣いたことが少ないです。他人が泣いているのもほとんど見たことがありません。男の子は涙なんて流さないほうが良いのかもしれませんが。そんなことを考えるとこのごろの人の感受性ってさがっているのかと思ってしまいます。たいていのことは常識の範疇に塗りこめられ、かたずけられてしまいます。

 もうチョイ大げさなぐらいのほうが楽しいと思うのですが。根拠はありません。のっぺらぼうよりは楽しいのは確かです。

 今ある文明の力を捨ててもっと前の時代の生活に戻りたい、というわけではありません。質素でもよいのでその中に幸せを見つけて過ごし、一期一会を大切にできたらいいな、と思うわけです。多分そんなトコです。

 文明の力がなければ、僕の自転車レースというチャレンジの場も無かったわけで。それを考えるとあんまし文句も言えないか・・・。

 以上昨今の存念でした。
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